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数学者たちの面白いエピソード集

数学は、その美しさと厳密さで知られていますが、その背後には数々の面白いエピソードが隠されています。この記事では、古代から現代まで、世界中の数学者たちの生涯とその業績にスポットを当て、彼らが数学界に与えた影響と共に、彼らの人間性やエピソードを紹介します。これらのエピソードは、数学が単なる抽象的な概念ではなく、人間の創造性と情熱から生まれたものであることを示しています。それでは、数学者たちの面白いエピソードを一緒に探っていきましょう。

ピュタゴラス - 古代ギリシアの数学者

ピュタゴラスは紀元前582年に生まれ、商人だった父に連れられて世界各地を旅しました。その中で彼は多くのことを学びました。エジプトでは幾何学とエジプトの宗教を、フェニキアでは算術と比率を、カルディア人からは天文学を教わったと言われています。その後帰郷してセミサークルという学校を開きますが、迫害され南イタリアに移住しました。

彼は数学者と哲学者として大いに活躍しましたが、政争に巻き込まれ失脚し、また市民の反感を買っていたこともあり、彼は亡くなってしまいました。彼の最期については諸説あり、殺されたとも、自殺したともいわれています。しかし死後もなお彼の影響力は強く、事実彼の弟子が各地に学校を作ることで、幾何学などの大きな発展に貢献しました。

ピュタゴラスは数学と宗教を追求する旅に出ていたと言われています。彼が訪れたのはエジプト、フェニキア、オリエントなど広大な地域に及びました。彼が信奉したテトラクテュスは、調和がとれていて秩序がある様子を表現する言葉です。秩序や調和は数やそれが生み出す秩序を重んじるピュタゴラスにとって大事なことでした。

彼の名を冠する様々な定理などが伝えられていますが、それらはピタゴラス本人でなく彼の教団が考えだしたものだったのです。彼がどの発見に深く関わっていたかは今となってはわかりません。しかし、彼の教団が発見したピタゴラスの定理は、直角三角形の3辺のうち、2辺の長さがわかると、残り1辺の長さもわかるという定理で、中学校数学では「三平方の定理」として学ばれています。この定理が真理であることは紀元前3世紀の数学者ユークリッド(エウクレイデス)によって証明されました。彼が証明した方法以外にも、ピタゴラスの定理の証明法は数百通りもあることが知られています。これらの事実は、ピュタゴラスが数学に与えた影響の大きさを示しています。.

ヒュパティア - 古代ローマの女性数学者

ヒュパティアは、東ローマ時代のエジプトで活動したギリシャ系の数学者・天文学者・新プラトン主義哲学者で、歴史的に見て数少ない女性数学者の一人です。彼女はアレクサンドリアの図書館館長テオンの娘として生まれ、新プラトン主義の創始者プロティノスと新プラトン主義のシリアでの分派の創設者イアンブリコスの2人の学統を継ぎました。

400年頃、アレクサンドリアの新プラトン主義哲学の学校長に就任し、プラトンやアリストテレスの思想について講義を行いました。彼女は様々な書物に対して註解を著し、その中にはディオファントスが著した『算術』や、ペルガのアポロニウス著の『円錐曲線論』、そして天文のカノンに対する註解も含まれていました。

しかし、彼女の生涯は悲劇的な結末を迎えます。当時はキリスト教が勢力を強め、異教徒への弾圧が激化していた時代でした。ヒュパティアは、女性でありながら男たちに学問を説き、神秘を否定する冒涜者としてキリスト教徒たちに目をつけられてしまいました。そして415年、暴徒によって殺害されました。彼女の死は、キリスト教徒・ユダヤ教徒がプトレマイオス朝以来の知的成果を引き継ぎ、アラブ人に征服されるまで聖書文献学の中心として発展したアレクサンドリアの衰退の始まりとも言われています。

ヒュパティアの生涯と業績は、女性が科学と哲学の分野で重要な役割を果たすことができることを示す一方で、その知識と才能が時と場所によっては危険を伴うことも示しています。彼女の物語は、知識と信仰、理性と迷信が交錯する社会の中での個々の運命を考えるきっかけを与えてくれます。.

関孝和 - 江戸時代の数学者

関孝和は、江戸時代の数学者で、「算聖」と称えられた人物です。彼は若くして高度な数学を学び、徳川家宣(後の6代将軍)に直参として仕えました。関孝和が生きたのは17世紀後半で、ちょうどニュートンと同時代の人物になります。

彼は、中国から伝わっていたのにすっかり忘れ去られていた「天元術」という計算方法を発展させ、「発微算法」というやり方を編み出しました。これは、当時の日本が鎖国体制にあったにも関わらず、同時代の西洋に並ぶ非常にハイレベルな数学をやったことを示しています。

関孝和は、出生年が不明で、没年は1708年です。生涯の大半を甲府藩主徳川家に勘定を専門とする役人として仕え、晩年になって、藩主が5代将軍の後継(後の6代将軍家宣)となったことから身分は幕臣となりましたが、間もなく隠居しました。

関孝和の業績は、日本独自の数学である和算の発展に大いに貢献したことで知られています。彼の功績は、日本の数学が世界レベルに達したことを示すものであり、その影響は現代にも続いています。.

ジョン・フォン・ノイマン - 「悪魔の頭脳」

ジョン・フォン・ノイマンは、「悪魔の頭脳」と称された天才数学者で、その業績は数知れずです。彼は量子力学の数学的基礎の構築、人間の行動を数学的に取り扱う「ゲーム理論」の提唱、そして現在のコンピュータの原型の製作など、多岐にわたる分野で貢献をしました。

彼の暗算能力は驚異的で、6歳で8桁の暗算ができ、ファインマンが計算尺で、フェルミが卓上計算機で計算を行っている間に、ノイマンは空を見上げて暗算で計算を終えていたという逸話があります。また、ENIACが完成したときに、「俺の次に頭のいいやつが現れた」と述べたとも伝えられています。

彼は7つの言語を扱い、ギリシア語でジョークが言えたとも言われています。また、彼は研究一筋の生活を送り、睡眠も仕事の一部だったと言われています。彼は睡眠前まで問題を考え、夢の中で問題を解き、起きると夢の中で経験したことをノートに取ったとされています。

彼の人生は、その天才的な才能と変人的な逸話に満ちています。その一方で、彼の業績は現代の科学技術に大きな影響を与え、その先見性は今日でも高く評価されています。.

アレクサンドル・グロタンディーク - 「57は素数」の数学者

アレクサンドル・グロタンディークは、「57は素数」という逸話で知られる数学者で、その業績は数学界に大きな影響を与えました。彼は抽象的な数学を追求し、その独自の視点で数学を捉えました。彼が具体的な数字が素数なのかそうでないのかについて語ったとき、それは天才にはきっと関係ないのだと言われています。

彼は「数学のノーベル賞」として知られるフィールズ賞を受賞しましたが、ベトナム戦争や旧ソ連の軍拡政策に反対していたため、モスクワで行われた同賞授与式への出席を拒否しました。また、彼は母校モンペリエ大の学生時代、それぞれが数年の作業を要するとみられていた課題14題のどれか一つを選ぶよう教授2人から提示され、その数か月後にそれらすべてを終えて戻ってきたという逸話があります。

彼の業績は、現代数学で使われる基礎的な手法を作り上げたことで知られています。その一方で、彼の人生はその天才的な才能と変人的な逸話に満ちています。その先見性は今日でも高く評価されています。.

グレゴリー・ペレルマン - ポアンカレ予想を証明した数学者

グレゴリー・ペレルマンは、世紀の難問とされる「ポアンカレ予想」を証明したことで知られる数学者です。彼はロシア出身で、幼い頃から数学の英才教育を受け、国際数学オリンピックにも出場しました。その後、突然サーストンの幾何化予想と呼ばれるものを証明し、その帰結としてポアンカレ予想を証明した時には各所に衝撃が走りました。

彼の証明は、クレイ研究所がその証明に100万ドル(約1億円)の賞金をかけたことでも知られています。しかし、ペレルマンはその賞金と一緒に、数学界のノーベル賞と言われるフィールズ賞も辞退しました。これは、彼が数学の真理を追求することに専念し、その他の名誉や賞金には興味がなかったことを示しています。

彼の人生は、その天才的な才能と変人的な逸話に満ちています。その一方で、彼の業績は現代の科学技術に大きな影響を与え、その先見性は今日でも高く評価されています。.

まとめ

この記事では、数学者たちの面白いエピソードを紹介しました。それぞれの数学者は、その才能と独自の視点で数学に大きな影響を与えました。彼らのエピソードは、数学が単なる抽象的な概念ではなく、人間の創造性と情熱から生まれたものであることを示しています。また、彼らの人生は、その天才的な才能と変人的な逸話に満ちています。それぞれの数学者が数学に与えた影響は、現代の科学技術に大きな影響を与え、その先見性は今日でも高く評価されています。これらのエピソードを通じて、数学者たちの人間性や業績を知ることで、数学への理解が深まることを願っています。それでは、数学者たちの面白いエピソードを一緒に探っていきましょう。.

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